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2012/04/10 (Tue)
「……シェンディルの所に行こう」
 ふと、口をついて出た言葉がそれだった。
 具体的にどうしようと考えていたわけではない。
 ただ、不意に思いついただけだ。
 何を。
 話したいと思ったわけでもない。

 レインはルベアの言葉に嬉しそうに手を叩いた。
「そうだね、そうしよう! オレまだちゃんと挨拶してないし」
「うん。俺も良いと思うよ」
 同意してオルカーンが喉を鳴らす。
「行き先が決まったのか」
 声に振り返ると、戸口のところにディリクが立っていた。
 相変わらず足音も気配も無い。
 彼は近くまで寄ると、手を伸ばした。
 察したルベアが盆を取ろうと手を伸ばそうとし、けれど右腕はまったく動かなかった。
「……」
 ディリクが無言で盆を取る。
 視線を上げられず、ルベアは右腕へと視線を落とす。

 不自然に、沈黙が落ちた。
 あの時、「喰われた」のは右腕の中身だ。
 神経や肉ではない、精神的な何か。
 意識や魂、と言い換えても良いかもしれない。
 その為外傷はまったく無いにも拘らず、腕はルベアの意思ではぴくりとも動かせなくなっていた。
 今もだらりと身体の脇に垂れたままだ。
 悲しい、という感情は沸かない。
 むしろ、重くて邪魔だな、と思う。
 一瞬切り捨てていこうかと本気で思ったが、不安そうな視線に気づいて顔を上げる。
「何だ」
「や、あの、えっと……大丈夫かなって」
 しどろもどろに言うレインに、怪訝そうな顔を返す。
「腕。不便だろ?」
 オルカーンに鼻先で示され、あぁ、と頷く。
「でも、仕方ない。今更言ったところでどうにもならないだろう」
「俺、が、ちゃんと全部戻せてたら……」
 泣きそうな声で、泣きそうな顔でレインが縋るように言う。
「違う。俺が、良いと言ったんだ。あんなのに呑まれて、腕一本で済んで僥倖だと言うべきだろう」
 厳しい口調で言い、其処で少し言いよどむ。

「……だから、……助けてくれて、有難う」
 小声で呟き、視線を外す。

 レインとオルカーンはきょとんとしてから互いに顔を見合わせ、それから微笑んだ。
 いつの間にかディリクは店へと戻っていて、レインは誰に憚る事無くルベアとオルカーンに抱きついた。
「おい……」
 驚いて引き剥がそうとするが、片手ではうまくいかない。
「……無事で、良かった」
 囁く声が聞こえて、ルベアは引き離そうとするのを止めた。
 苦しそうにしていたオルカーンと視線を合わせ、互いにため息をついて空を仰いだ。
 四角く切り取られた空は青く、手の届かないほど高いのだと改めて感じられるようだった。
2012/04/11 (Wed)
 ルベアとレインの体力が完全に戻り、片腕での生活にもそこそこ慣れた頃、そろそろ出発しようということになった。
 旅装になり、荷物を整理しているのをディリクは店のカウンターに座って見ていた。
 いつもは暗い店内には灯りがつけられ、手元がきちんと見分けられるほどの光量が保たれている。

「シェンディルまだ山に居るかなぁ」
 レインが紐を結びながら呟いた。
「暫くは居るようなことを言っていたから、まだ居るだろう」
 表情の読めない顔で、ディリクが言う。
 視線は棚の一つに向いている。
 何かを探しているようだ。
「まぁ居なくても、イーアリーサに行けば良いんだし」
 用意の必要ないオルカーンがのんびりと言った。
 僅かな衣擦れの音をさせてディリクが立ち上がると、奥の棚へ歩いていった。
 荷を詰め終わったルベアはそれを見るともなしに見て、視線をレインへと戻した。
 まだ詰め終わらないのか、時折手を止めては首を傾げている。
「いらないなら持って行くなよ」
 注意するが、レインは困ったように首を傾げるだけだ。
「いると思うんだけど……」
「何でそんなに荷物が大きくなるんだ。あんまり持ってなかっただろう?」
「そうだよね……」
 心此処にあらずな返答をして、手に取った何かの瓶を詰める。
 中身は何かの葉だ。
 薄暗い中でも鮮やかな緑色をしているのが見えた。
「何だそれ」
「月寄草の葉だよ。真っ暗な時とか良い灯りになるんだ」
「レイン何処に行く気なの」
 呆れたようにオルカーンが口を挟む。
「灯りなら灯籠があるだろう」
 重ねて言うと、レインは渋々と瓶を戻した。
「お前まさかその中そんなのばっかりか」
 視線を険しくして問うと、レインは俯いてからえへと笑った。
「えへじゃない。見せてみろ」
 ルベアは問答無用で奪い取ると、中身を選定し始めた。
 中身を全て出すと、ほぼ6割は必要なさそうなものだった。
「……」
「……一応商品なんだが」
 いつ戻ってきたのか、ディリクが同じように鞄の中身を覗き込んでため息を吐いていた。
「堂々と盗むな」
 レインに軽く拳を入れてから、店のものであろう品を戻していく。

「オルカーン」
 ディリクに呼ばれ、オルカーンが頭を擡げた。
「何?」
 彼はオルカーンの傍らに膝を突くと、柔らかな耳に触れた。
 くすぐったさに身を捩るのを、ディリクが視線で止める。
「――……そのうち、必要になるかも知れない」
 ぽつりとディリクが呟く。
 囁きのように小さい声だったので、その声はオルカーンにしか聞き取れなかった。
2012/04/11 (Wed)
「使わずに済めば良いが」
 手を離すと、耳には緑の石のついた小さな飾りがあった。
「何?」
 自分では見れないのでオルカーンが首を傾げる。
 レインが、はい、と言って鏡で示した。
 飾りはきらきらと僅かな光を反射して、ちり、と小さく鳴った。
「へぇ。綺麗だね」
 オルカーンがぽつりと言った。

「用意はできたのか」
 ディリクの問いに、ルベアが肩をすくめる。
「まだもう少しだ」
「そうか」
 そう言ってディリクは立ち上がると、奥へと向かった。
 ルベアは荷造りを再開し、レインは弾き出された荷物を恨めしそうに見ていた。


 暫く後、ようやく荷が完成した。
「よし、これで良いな」
 まだレインが不満そうな顔をしていたが、ルベアは取り合わずに家の奥へ視線を向けた。
 ちょうど部屋から出てきたディリクと目が合う。
「行くのか」
「あぁ。世話になった」
 短い挨拶を交わす。

「……用が済んだら」
 言いかけ、一息置く。
「アィル達の所に行ってみると良い。歓迎してくれるだろう」
 淡々と言われた言葉を反芻して、頷く。
「それじゃ、またね」
 レインが手を上げ、すでに背を向けていたルベアを追って店の外へと向かった。
「オルカーン」
 後に続こうとしていたオルカーンが、ディリクの声に止まって振り返る。
「二人を、頼む」
 じっと見つめて言われ、戸惑いながらもオルカーンが頷いた。
 すぐに背を向け、外へと飛び出していく。

 眩しいほど明るい外への扉が閉じられ、店の中がランプの灯りだけになった。
 暫く扉へと視線を留め、それから不意に視線を落として俯く。
 自分にも先見の力があれば良いのに、と思った。
 ルシェイドとは連絡を取れない。
 だから、気休めだ。
 あんな耳飾など。
 囁くように、昔覚えた祈りの言葉を呟く。
 せめて無事に、彼らが戻れば良い。
「……ルシェイド……」
 何処へ行った。
 この不安を笑い飛ばして欲しい。
 そんなものを感じる必要は無いのだと。
 ただの取り越し苦労だと。
 ディリクは細く息を吐いた。
 目が閉じられた時、それに呼応して店内の明かりは全て消えた。

 まるで最初から灯っていなかったかのように。
2012/04/13 (Fri)
「歌姫?」
「そう! あんた知らないのかい。一度歌い始めれば人も動物も聴き惚れるっていう、あの歌姫さ。南の戦争も止めたっていう噂もあるんだよ」
「へぇ……知らなかったな」
「あんた南に向かうんだろ? なら、運が良かったら歌が聞けるかもしれないよ」
「……楽しみにするよ」
 豪快に笑う商人に苦笑して、その場を後にした。
 風に舞う砂に少し咳き込んで、引き下げていた布を鼻まで上げる。
 道行く人も皆同じように顔や頭に布を巻いている。
 石畳も、建物も、四方を舞う砂で黄色くくすんで見えた。
 砂漠の端に位置するこの町にも、砂は容赦なく吹き込んでくる。
 もう五年もすれば、ここも砂漠の中の町になるか、寂れて誰も住まない土地になるだろう。
「歌姫、ね……」
 ぽつり、と呟く。
 砂漠の入り口である、町との境には人影は殆どない。
 大抵の者は隊商と共に砂漠を渡るため、一人で立っているのは彼だけだ。
「それが本当なら、殺しに行かないといけないかもしれないな」
 ぼんやりと呟いて、砂漠に歩を進める。
 向かう先は南の国。
 砂漠に飲まれ、滅びるはずだった、名高い神都だ。
「約束は反故になるけど、選択によっては、仕方ないよね」
 ふふ、と笑う。
 さくさくと砂を踏んで進む姿は、砂嵐に飲まれてすぐに見えなくなった。

 頭に布をかぶっていても、頭上から照りつける太陽は容赦なく水分を奪っていく。
「あっつ……」
 ため息をつきながらぼやく。
 すでに汗はでなくなっている。
「このあたりで水って……集められないな」
 周りは酷く乾燥しているため、湿気は限りなく零に近いだろう。
「まぁ、もうすぐ着くか」
 視線の先には、目指している町が見えていた。
 ふと、風に乗って微かに歌声が聞こえた。
 僅かに目を細めると、ため息を付いて足を早めた。

 その町も、他の砂漠の町と同じように石造りの町並みで、白い神殿を中心に家が広がっていた。
 歌声は、町に入ってからはっきりと聞こえてきていた。
 歌に惹かれるように歩を進める。
 周りの住人たちは、作業の手を止めて歌の聞こえる方向に顔を向けていた。
 それを指針に進んでいくと、広場に出た。
 人だかりのできた中心から、歌が溢れるようにきこえている。
 伴奏はない。
 高く低く、砂に染み渡る水のように、歌が耳に入ってくる。
 それを振り払うように頭を振り、足を進めた。
 集まった人々の間をすり抜け、歌姫が見える場所に移動する。
 流れるような金の髪をした少女が、そこにいた。
 両目を閉じ、薄く微笑みながら歌を紡ぐ。
 広場に集まった全ての人が、少女の歌に聞き惚れていた。
 囁き声一つ聞こえない。
 その少女の姿を見て、一人顔を顰める。
 できれば違っていて欲しかった。
 別人だったなら、まだ良かったのに。
 長いような短いような時間の後、歌が終わり頭を下げた少女に、広場の皆が盛大な拍手を送った。
 傍らにいた少年が少女の腕を引く。
 少女は少しよろけながら少年についていく。
 その時に、気づいた。
 彼女は目が見えないのだと。
 生まれつきではないのは、動作で分かった。
 はぁ、とため息を吐く。
「……恨むよ、二代目」
 広場の人々は散り散りになり始めていて、彼に注意をはらうものは誰もいなかった。
2012/04/16 (Mon)
「僕は先見ができるんだ」
 少女の前に現れた青年が出し抜けにそう言った。

「……貴方は?」
 暗闇に覆われた視界には、青年の姿は見えない。
 声に宿る楽しげな色と、深みのある声で青年だと判断できただけだ。
「僕はルシェイド。君は、レゼリナーダだね?」
 確かめるような声に、頷くことで答える。
 自室に誰かが入ってくることなどめったにない。
 盗賊に遭遇してからは、危険だからと、少女の護衛を買って出ている少年が誰も通さないようにしているからだ。
 けれど、あっさりと入り込んだ青年は、声の位置からして手を伸ばせば届きそうな位置にいる。
 少年が見たら血相を変えるだろうな、と考えながら、危険だとは思わなかった。

「――マルヴェーリの、妹」

 続いた言葉に絶句する。
 マルヴェーリは彼女の兄だ。
 誰からの記憶にも残っていなかったのに。
「兄を、覚えてるんですか?」
「ん?」
 怪訝そうにルシェイドが問う。
「……兄を覚えてる人は誰も居ないんです。貴方は――」
「あぁ、そういうことか。覚えてるよ。直接会ったことはないけど」
 あっさりと言って、ルシェイドが額に触れる。
 冷やりとした、冷たい手だ。
「……目を開けてごらん」
 言われるままに、目蓋を震わせる。
 目は、ずっと見えなかった。
 あの時から。
「視えるでしょう?」

 久しぶりに目に飛び込んだ色彩に、何度も瞬きをする。
 そして、目の前には予想した青年が立っていた。
 窓からの月明かりに浮かび上がった姿は噂される夜の魔物のようで、体が一瞬震えた。
 その様子に、ルシェイドが目を細める。
 金の、目を。

「――!」

 がたり、と、思わず椅子から立ち上がる。
 この砂漠の町でも、近隣の国でも見たことがないほど鮮やかなその金の目は、過去に一度だけ見たことがあった。
 彼女の兄を、連れていってしまった青年と同じ色。
「兄を……兄が何処に行ったか、知っているんですか」
「……君の兄はもういない。座りなよ」
 レゼリナーダの頬に手を当て、ルシェイドが囁く。
 その声に押されるように、椅子に腰を落とした。
「いな……い……?」
「そう。僕は彼らと面識はないけれど、何があったか、何が起こるはずだったのか知ってるよ」
「え……」
 ルシェイドの言葉に頭が追いつかない。
「言っただろう? 僕は先見ができるんだよ。……否、この場合は過去視、かな」
 首をかしげてルシェイドが笑う。
 何でもないことのように。
 たとえその目が笑っていなくても。
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