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2024/11/25 (Mon)
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2012/04/09 (Mon)
 ふと気がつけば、糸は流れるようにルベアに向かっていた。
 手繰り寄せる力は必要ないほどに。
 ほんの少し、ほっとして力を抜いたところで糸がぴたりと止まった。

「……よくも。ゆっくり喰らってやろうと思ってたのにさァ!」

 ぶつん、と糸が切れた。
 先を闇に残したまま、中ほどで。
 切れてはならないものだったのに!

 一際高く、オルカーンが唸り声を発した。
 それに被せるように、密やかな笑い声が響く。
 切られた糸はもう見えない。
 全てルベアの中に納まったようだ。
 闇に取られた分を除いて。
 顔を見ると、目は硬く閉じられていた。
 他に動きは、無い。
『レイン!』

 ――うん……!

 頷いて、ルベアを抱えあげる。
 力が足りなくて引きずる形になったが、何とか移動はできそうだ。
 歩き出そうとした時、不意に引っ張られる感覚があった。
 ぎくりとして抵抗しようとしたが、それが覚えのある人物の力だとすぐに気づいた。
 ディリクだ。

 ――オルカーン!

 叫んで、手を伸ばす。
 意図を察した彼がレインに飛びつく。
 それとほぼ同時に、レインは引っ張る力に身を任せた。
 景色が無いので分かりにくいが、目の前にあった気配は驚くほどの速さで遠ざかっていった。
 声が聞こえた気もしたが、もはや聞き取れるほどの距離ではないようだった。
 落とさないようにとしっかりルベアとオルカーンを掴み、きつく目を閉じる。
 意識がぐらぐらとして吐きそうだった。

 不意に闇が晴れた。
 眩しさにはっとして目を開けると、心配そうなヴィオルウスの顔が見えた。
 斜めに倒れた身体を支えていたのはディリクだった。
 しっかりと支え、床に倒れるのを防いでくれている。
 腕を見下ろし、ルベアとオルカーンの姿を見て安堵する。
 どうやら落とさずにすんだようだ。

「潰せ」
「駄目だ!」
 冷やりとしたディリクの声が聞こえ、反射的にレインは叫んでいた。
 驚きと怪訝さが混じった表情で、振り返ってくる二人に、レインが首を振る。
 アィルはただじっと、成り行きを見ていた。
「何故だ」
 険しい声。
「……駄目だ、だって、あの中には……」
 切り残された、ルベアの。
2012/04/09 (Mon)
「……良い。……構うな」
 掠れた声が耳に届いた。
 ルベアが、緩慢な動作で起き上がろうとしていた。
「けど……!」
 言い募ろうとするレインを黙らせ、視線をディリクに向ける。
 其処に何かを見て取ったのか、ディリクは浅く頷くと視線を上げた。
「……良いんだね」
 ヴィオルウスの囁くような問いに頷いて返す。

 瞬間、何も無い空間からどろりと闇が溢れた。
 それは人の影のような形を模していたが、所々が溶けているような、不完全な姿をしていた。
 返せ、とそれはわめいた。
 陰鬱に響く声で。
「彼は君のものではないよ」
 凛とした声と同時に闇は押しつぶされた。
 音は、しなかった。
 それは無音のまま凝固し、圧縮され、消えた。

 しん、と沈黙が落ちた。

 暫く時間が経ってから、オルカーンがぱさりと尻尾を振った。
 それを視界の端に受け、レインが半ば呆然と口を開く。
「いなくなった、の?」
 ディリクが空気を嗅ぐように僅かに顔を動かし、一言呟いた。
「もういない」
「死んだの?」
「手応えはあったよ」
「そのようだ」
 それを聞いた途端、レインの全身から力が抜けた。
 ルベアが呻いて、身体を起こそうとする。
「……っ、……」
 異変に気づいたアィルがルベアの手を取った。
「お前……手が」
「あぁ、……喰われた」
 淡々と言われた言葉に、レインが身体を強張らせる。
「……利き腕じゃないだけましだ」
 ルベアは苦笑して、アィルの持つ右手へと視線を走らせた。
 その腕は弾力を失い、石のように硬くなっていた。
「……でも、無事で――……」
 よかった、と続けようとして、腕に増した重みに視線を向ける。
 目を閉じて、ルベアがもたれ掛かっていた。
「……ルベア?」
 ぽつり、と呟く。
 不安そうにオルカーンが顔を覗き込む。
 ディリクが素早く、何かを唱えながら手を取った。
 暫くあちこち触れた後、短く息を吐いて顔を上げた。
「気を失っているだけだ。問題ない」
 その言葉に、その場の全員がため息をついた。
「何だ、驚かせるなぁ」
 言って、アィルが表情を崩した。
「とりあえず、無事、なんだよね」
 レインが確認するように呟いて、後ろのベッドに倒れこんだ。
2012/04/10 (Tue)
 それから三日ほど経った。
 つい先ほど目を覚ましたルベアは、体のふらつきを抑えながら廊下へと向かった。
 扉を抜けると、店の方からディリクが顔を出した。
「起きたか」
 声を出そうとして、一度咳き込む。
「……すまん。占領していたようだ」
 少し掠れた声で言うと、ディリクは首を横に振った。
「店に居たから、平気だ」
 ふと、静かなことに気づく。
「レインとオルカーンは」
「中庭に居る」
 指で示すと、彼はそのまま店の中に消えた。
 ルベアはディリクの消えた跡を暫く見ていたが、徐に踵を返すと中庭に向かった。
 足は少しふらつくが、頭ははっきりしている。

 扉を開ける。
 眩しさに一瞬目が眩み、強い光は今が朝方なのだと感じさせた。
「あ!」
 驚いたように叫ぶ、聞きなれた声がした。
 目の上に手を翳しながら中庭を見ると、レインとオルカーンがこちらに駆けてくるところだった。
「起きたんだね!」
「ずっと寝たままだったよ」
「……あぁ」
 二人に低く呟き、きょろ、と中庭を見回す。
 他に人影は無い。
「あの二人は?」
 問うと、レインが首を傾げて答えた。
「ヴィオルウスと、アィル?」
 頷くと、オルカーンが帰ったよ、と言った。
 そうか、とドアに背を預ける。
 上半身が陰に入った。
 少し暗くなった視界を瞬きで慣らし、レインに視線を向ける。
「お前、記憶は?」
 レインは一瞬きょとんとしてから、首をかしげた。
「戻ってないのか?」
「うーん。良くわかんない」
 怪訝に思ってオルカーンを見ると、尻尾をぱたりと振ってその場に伏せた。
「どっちなんだ」
「力は……使えるみたいなんだけど……、記憶とかはあんまり覚えてないっていうか」
「其処まで自我が確立していなかったからな。ただ覚えていないだけだろう」
 不意に低い声が響いて、ルベアは驚いて振り返った。
 音もさせずに、ディリクが立っていた。
 手には盆を持っている。
 それをルベアに向けながら、彼は静かに口を開いた。
「……お前が、こっちへ来たのは物心つくかつかないかくらいの時だ。覚えていなくても不思議は無い」
「……? じゃあ何で魔法は使えるの?」
 きょとんと首を傾げてレインが問う。
 ルベアはディリクから盆を受け取った。
 その上には一人前の食事が載っていた。
「魔法というのは魔族にとって呼吸をするのと等しいほどに簡単なものだ。だが意思がなければ使えない。お前のそれは」
 一旦言葉を区切り、ディリクはレインを指差す。
「その意思ごと消すようなものだ。それが戻ったから、また魔法が使えるようになったんだ」
 言い終えて、ため息を吐く。
 珍しい長口上に疲れたかのように。
「意思……」
 分かったような、分からないような、そんな表情でレインが俯く。
「まぁ使えるって知らなかったら使おうとは思わないしね」
 ぽつりとオルカーンが呟き、レインがなるほど、と手を打った。
「……そういうことだ。さっさと食え。冷めるぞ」
 後半はルベアに言い、ディリクは踵を返した。
 これを届けに来ただけのようだ。
2012/04/10 (Tue)
「外で食べた方がきっと気持ち良いよ」
 レインが笑ってルベアの袖を引っ張る。
 落とさないように注意しながら、ルベアは後に続いて日の当たる中庭に入った。
「もう食べたのか」
「ご飯? うん。さっき食べ終わったんだよ」
 もう少し待ってれば良かったね、とレインとオルカーンが笑った。
 それには応えず、ルベアは盆に載った食事を食べ始めた。
 食べながら、次はどうしようねと言っている二人に視線を向ける。
「とりあえずオレの目的ってもう達成しちゃったんだよね」
「あ、そっか、そうだね」
 驚いたようにオルカーンが声を漏らした。
 それから、ちらりと決まり悪そうにルベアへと視線を移す。
 視線の意味に気づいたルベアは、口の中のものを咀嚼してから視線を落とした。
 その先に、動かない右腕が映る。
「俺は……」
 言いかけて、ヴィオルウスとアィルの顔を思い出す。
 暫くの逡巡の後、彼はため息と共に囁くように言った。
「俺も、良い。目的はもう無い」
 レインとオルカーンは少しほっとしたように頷いた。
「んー、じゃあ、オルカーンの探してる人見つけに行こう」
 良い事を思いついた、とレインが嬉しそうに言うが、対照的にオルカーンが渋い顔で尻尾を振った。
「俺の場合は界渡りが必要だし、レインはともかくルベアは移動できないだろ」
「え、駄目なの?」
 驚きに目を丸くするレインに、ため息で答える。
「ルベアは純粋な人間だろう? 無理だよ」
「うわぁ純粋じゃないって言われてる気分」
「違うの?」
「いやわかんないけど」
 レインは胸元を押さえて斜めに傾いでいたが、気を取り直すと真っ直ぐ座りなおした。
「でも、会いたいんじゃないの?」
 珍しく真剣な表情で言うレインに、オルカーンがうーんと唸る。
「会いたくないって言えば嘘になるけど、無事だって知ったから、良いよ」
 尻尾をぱさぱさと振り、オルカーンがその場に寝そべった。
「そういうもんなの?」
「そういうもんだよ」
 オルカーンが眠たげに目を閉じる。
「じゃあ、どうしようか?」
 話は其処に戻るらしい。
 食べ終え、食器を盆に戻す。
 ディリクが作ったのだろうか。
 質素なスープだったが、味は美味かった。
「ルベアはどうしたい?」
 突然話を振られて顔を上げると、いつもと同じように、レインとオルカーンがこちらを見ていた。
「……」
 無言で、視線を外す。
 日の光は明るく暖かで、酷く平和だった。
 何処かから飛んできた鳥が、中庭の隅に生えている木にとまった。
 暫くそうして眺めてから視線を戻すと、二人はまだこちらを見ていた。
2012/04/10 (Tue)
「……シェンディルの所に行こう」
 ふと、口をついて出た言葉がそれだった。
 具体的にどうしようと考えていたわけではない。
 ただ、不意に思いついただけだ。
 何を。
 話したいと思ったわけでもない。

 レインはルベアの言葉に嬉しそうに手を叩いた。
「そうだね、そうしよう! オレまだちゃんと挨拶してないし」
「うん。俺も良いと思うよ」
 同意してオルカーンが喉を鳴らす。
「行き先が決まったのか」
 声に振り返ると、戸口のところにディリクが立っていた。
 相変わらず足音も気配も無い。
 彼は近くまで寄ると、手を伸ばした。
 察したルベアが盆を取ろうと手を伸ばそうとし、けれど右腕はまったく動かなかった。
「……」
 ディリクが無言で盆を取る。
 視線を上げられず、ルベアは右腕へと視線を落とす。

 不自然に、沈黙が落ちた。
 あの時、「喰われた」のは右腕の中身だ。
 神経や肉ではない、精神的な何か。
 意識や魂、と言い換えても良いかもしれない。
 その為外傷はまったく無いにも拘らず、腕はルベアの意思ではぴくりとも動かせなくなっていた。
 今もだらりと身体の脇に垂れたままだ。
 悲しい、という感情は沸かない。
 むしろ、重くて邪魔だな、と思う。
 一瞬切り捨てていこうかと本気で思ったが、不安そうな視線に気づいて顔を上げる。
「何だ」
「や、あの、えっと……大丈夫かなって」
 しどろもどろに言うレインに、怪訝そうな顔を返す。
「腕。不便だろ?」
 オルカーンに鼻先で示され、あぁ、と頷く。
「でも、仕方ない。今更言ったところでどうにもならないだろう」
「俺、が、ちゃんと全部戻せてたら……」
 泣きそうな声で、泣きそうな顔でレインが縋るように言う。
「違う。俺が、良いと言ったんだ。あんなのに呑まれて、腕一本で済んで僥倖だと言うべきだろう」
 厳しい口調で言い、其処で少し言いよどむ。

「……だから、……助けてくれて、有難う」
 小声で呟き、視線を外す。

 レインとオルカーンはきょとんとしてから互いに顔を見合わせ、それから微笑んだ。
 いつの間にかディリクは店へと戻っていて、レインは誰に憚る事無くルベアとオルカーンに抱きついた。
「おい……」
 驚いて引き剥がそうとするが、片手ではうまくいかない。
「……無事で、良かった」
 囁く声が聞こえて、ルベアは引き離そうとするのを止めた。
 苦しそうにしていたオルカーンと視線を合わせ、互いにため息をついて空を仰いだ。
 四角く切り取られた空は青く、手の届かないほど高いのだと改めて感じられるようだった。
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